楽天のモバイルWi-Fiが解約できない件ですが、結局お金で片をつけることにw
今回の問題は、モバイルWi-FiとSIMカードを紛失したことと、解約のためのワンタイムパスワードがメールアドレスに届かなかったこと。
いろいろ調べてみると、どうもSMSでしかワンタイムパスワードが届かないらしい。画面上では、『SMSか登録されているメールアドレスに届く』って出るんですが、お店の人もSMSでしか届かないんですよ、というような対応でした。
しかし、そもそもモバイルWi-Fiの契約なので、SMSなんて届くわけないじゃないですか。
対応策としては、SIMカードがあれば、そのSIMをお店のスマホに入れて、そちらでSMSを受信できるんですが、無いとなると電話でオペレーターにつなぐしかないんです。とのことで、いや、その電話がさっぱりつながらないからこうしてお店に来てるんで、どうにかなりませんかと伝えてみましたが、やはり電話でしかできませんの一点張り。
でも、電話自体が9時から17時までしか受け付けてないし、電話してもまぁつながらないので、そこに費やす時間がない・・・
SIMカードがあればやってもらえるのか・・・ はっ!💡
「そういえば、SIMカードの再発行ってできますよね」
「はい」
「じゃあ、SIMカードを再発行して、そのカードでSMSを受信してもらえばいけますよね」
「再発行は有料になりますが・・・」
「いや、このままらちがあかなくて、そのまま通信料(無使用でも税込みで1078円かかる)が取られるくらいなら、再発行の3300円でよしとします」
こうして、3300円を払って解約にこぎつけました。
ちなみに、新しいモバイルWi-Fiを1円で契約しているので、3301円払ってモバイルWi-Fiを新しくしたんだと思えばいいかなと。そして、今回のモバイルWi-Fiを解約するときには、SIMカードを持ってお店に行くか、できるのなら、自分のスマホにSIMカードを突っ込んで、手続き自体はPCで進めればなんとかなるかなと。
備忘録として、こちらに書き留めておきましょう。
さて、京都の旅2日目は大原へ。寂光院までの道のりを昨日紹介しました。本日は寂光院のご案内です。
寂光院は大原にいくつかあるお寺のうちの一つ・・・という認識しかなかったのですが、今回行ってみて、2つの印象的なエピソードをもつお寺であることを知りました。
どんなエピソードかは、おいおい紹介していきましょう。

石段を上がった奥にお堂があります。



この本堂、2000年に何者かの放火により焼失し、5年後に再建されています。そのとき、堂内にあった地蔵菩薩立像も炎に包まれてしまったのですが、火が消し止められたとき、全身を焦がしながら屹立を保っていたそうです。

案内にはこのように書かれています。
受難と再興
平成12年5月9日未明、寂光院は心無い者の放火により、桃山時代に建立された三間四面の柿葺本堂はひとたまりもなく灰燼に帰しました。 堂内には鎌倉時代に制作された本尊地蔵菩薩立3000余体の小地蔵尊像 (共に重要文化財)、および建礼門院像・阿波内侍像が安置されていたが、 すべて焼けてしまいました。ただ、本尊地蔵菩薩像様だけは本堂の屋根がすべて崩れ落ちた中で、全身を焦がしながらも朝陽を浴びて凜として尊く屹立しておりました。像の表面は大きく焼損したが、幸いに像内に籠められていた鎌倉時代の造立の発願文・経文類やさらに3000余体の小地蔵尊を始めとする納入品の数々は無事でした。
火災の直後、文化庁及び有識者によって焼損した地蔵菩薩像の重要文化財指定継続の有無が議論されたが、地蔵菩薩像の彫刻面がほぼ残存していること、及び像内の造立当初からの豊富な納入品が無傷で残ったこと、などが理由で指定解除に至らなかったことは不幸中の幸いでありました。
しかし地蔵菩薩像を焼損したままにしておくことは風化と欠落を招くため、直ちに文化庁の指導のもとに財団法人美術院の手によって樹脂硬化による保存処理が施された。また、像内に納められていた数々の納入品とともに、完全空調の収蔵庫において永久保存されることとなりました。
聖徳太子発願以来ともいうべき未曽有の受難を乗り越え、1400年の法灯を未来永劫に伝えんとともに、ここに寂光院の安穩と万民豊楽・ 世界平和を深く祈念するものであります。
Googleレンズで読み込んだら、1文字だけの訂正で済みましたw
その地蔵菩薩像は後で見学。





こちらの廊下から上がり、本堂で寂光院のいわれについてのお話を聞きました。その中で、上記の地蔵菩薩像のお話と、もうひとつのお話も伺いました。
それが、題名にも書いた「波の下にも都がございます」に関わるお話。
この言葉は、源平合戦の最終戦となった壇ノ浦の戦いで、いよいよ敗色が濃厚となった平家軍と行動を共にしていた安徳天皇(当時満6歳4ヶ月)を、二位尼が抱いて入水するときに言った言葉として伝わっています。
『平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。(Wikipedia-安徳天皇より)
小学生の頃にこのエピソードを聞いたときは、特に何も思わなかったのですが、この年になってこうしたエピソードを読むと、涙を禁じ得ません💧
さて、その安徳天皇の母が、平清盛の娘でもある平徳子。彼女も一緒に海に身を投げたのですが、幸か不幸か、源氏の兵士の持つ熊手に髪をかけられ引き上げられ、生きながらえてしまいます。
その後、出家して建礼門院となり、安徳天皇と一門の菩提を弔うためにこの寂光院に入りました。平家物語のラストは、その建礼門院を後白河法皇が訪ねるシーンが最後の幕引きとなっているとのこと。
このため、本堂には本尊地蔵菩薩像とともに、建礼門院像・阿波内侍(徳子に仕え『平家物語』にも登場、「大原女」のモデルや「しば漬け」考案者といわれる)像が再現され、安置されています。写真はありませんが、公式サイトに写真があります。


もちろんですが、私たちは空調によって管理されている中には入れず、ガラス越しでの対面となります。







こうして寂光院では、思わぬ2つのエピソードと出会うことができました。
今でも、市街地からはずいぶん離れ、京都のイメージとはずいぶん異なる土地ですが、鎌倉の世の頃はそれ以上に『訪れる人も希なる地』だったようです。
そんなところで、亡き我が子や一族の菩提を弔う暮らしをしていた建礼門院徳子の心境を思うと、切ないという言葉では表しきれない気持ちになりました。
紅葉も色とりどりできれいでしたが、来る前とずいぶん異なる心持ちになって来た道を戻るのでした。


こうしてセンチメンタルになりながら、続きはまた明日です。
