今日は、イタチの最後っ屁のように高温になって、明日からは暑さが落ち着くという予報でしたが、思ったほど気温も上がらず。
明日以降はようやく秋の空気がやってきて、最低気温も25℃を下回る予報になっています。
昨年もこの時期からスーッと気温が落ち着いているので、暑さ寒さも彼岸までというのは生きているんだなぁと。でもそれも、時間の問題かも・・・と思ったりもしてしまいます。
さて、こうして夏の終わりが近づいてきましたが、ブログはまだまだ真夏の話題。函館観光へと向かう車内からお送りいたしましょう。
木古内で道南いさりび鉄道へと乗り換え、函館へと向かいます。道中のほとんどは津軽海峡沿いを走るため、車窓からは海を眺めながらおよそ1時間の道のりとなります。


【こちらは岩徳線の写真】
同じキハ40仲間の岩徳線では、扇風機がついたままになっていましたが、いさりび鉄道では撤去したのかな。
こうして、昭和を感じる車内を堪能しながら、車窓も堪能していきます。
江差には開陽丸記念館がありましたが、ここは咸臨丸。
咸臨丸は、幕府の船として太平洋を渡る偉業をなし遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍しました。しかし、初期の船だっただけに、戊辰戦争の頃には旧型船となっており、地元の清水で新政府軍の軍艦に敗北。そのときに亡くなった乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬したという逸話も残っています。
同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見・攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。戦いの後、戦死した乗組員の遺体は明治新政府の咎めを恐れて誰も処理しようとする者がなく、清水湾内に漂い、腐敗するまま放置された。これを見かねた次郎長は舟を出して遺体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍はこの収容作業を咎めたが、次郎長は「死ねばみな仏にござる。仏に官軍も賊軍もない」と突っぱね、翌年には「壮士墓」を建立した。(Wikipedia 清水次郎長より)
そしてその最後は、北海道へ移住する旧仙台藩の家臣400名余を乗せて函館から小樽へ向かう途中で座礁し、翌日沈没。それがまさにこの場所なのでした。
実はここ、行ってみたくてGoogleマップに保存していたんですよw また改めて車で来たいですね。


トンネルの径が違うんですよね。
ここから湾をぐるりと回っていきます。
いろいろな景色を見せてくれて、思った以上に面白い路線です。
ちなみに、見えているのはRED BEARという愛称を持つJR貨物DF200形ディーゼル機関車です。
函館には、定刻通り8時16分に到着しました。
海の景色、それから様々な表情を見せる線路、バラエティに富む駅舎など、1時間退屈せずひたすら車窓を楽しむことができました。
函館駅は、どん詰まりの駅でこの先に線路はないので、どのホームにもこの車止めがあるんですね。
さて、それでは朝食です。
結構お腹が減っていたので、駅舎の中に自然と吸い込まれていきました。よく考えたら、朝市がすぐ近くにあったんですが、まったく頭になく。
朝食を食べながら、まずはどこに行こうか作戦会議。
まずは朝一番で箱館山に行ってみようということになりました。
・・・と、その前に・・・


鉄印をもらいに、本社事務所を訪問。ちなみに鉄印ってご存じ?
神社の御朱印をヒントに、最近は御城印も流行りですが、鉄道ではこの鉄印があります。他にも、船に乗って押してもらう御船印、お菓子屋さんで押してもらう御菓印、古墳にいって押してもらう御墳印なんてのがあるそうです。
鉄印は、上にあるように、第三セクターの鉄道会社で展開されています。現在40社の鉄印があるとのこと。うちはいくつ集めたんだろう。せっかく乗ったのに、鉄印帳を忘れて押してないところもあるんだよなぁ。
函館の人たちにとっては日常の風景だと思いますが、道路に線路があってそこに列車が走る風景は、私たちにとってはやはり非日常の風景です。
それにしてもなかなかの坂。ここからもう箱館山は始まっているんですw
というわけで、箱館山の麓までやってきました。ここからはロープウェイで一気に山頂です。
といったところで、続きはまた明日です。