From Shizuoka to everywhere(^^)/

A to Z社のキャンピングカー『アミティ』の購入をきっかけに始めたYahoo!ブログの閉鎖に伴い、はてなに引っ越してきました。我が家のお出かけを中心に徒然と記事を書いています。我が家は私・かみさん・小僧という家族構成です。それぞれの趣味趣向が表れると思いますが、主に私・かみさん:キャンプ・スキー・山登り・自転車・旅行 私のみ:マラソン 小僧:鉄道 という方向性になっております。お付き合いいただければ幸いです。 ブログ名にあるように、静岡在住です。

ずいぶん前のことですが駿府城跡天守台発掘調査現場説明会に行ってきました その②

今日は予定通り、昼前にジョギング敢行。

しかし、後半30分は雨に降られてしまい、また、途中で時計を停めたのをリスタートし損ねたりして、実質は13km以上走ったのに記録は12kmのジョグに😢

まぁ、雨は別に気にならないんですけど、距離損はちょっとショックですねー。記録上は走ったことにならないので。

【不自然なまでに一直線の区間が未計測💦】

まぁ、記録とは別に身体は変わっていくと思いますから、走った分だけ強くなると思ってまた頑張りましょうw

さて、昨日は天正と慶長について調べていたらあっという間に時間が経ってしまいまして、なんとなく中途半端な終わり方だったのですが、今回の見学会、というか駿府城の発掘ではこの天正と慶長というのが結構なポイントになっているので、まぁ調べてみてよかったかなと。

日本史は好きですが、この時期の細かい動きをしっかり把握できていたかというとそうでもなかったので、いろいろな発見がありました。で、改めて調べて見ると、天正と慶長の間には文禄があったりして💦

というわけでくどいようですが、この時期の年表を簡単にまとめると以下のようになります。

天正元年 浅井・朝倉が織田信長に滅ぼされる
天正2年 長嶋一向一揆鎮圧
天正3年 長篠の戦い
天正4年  
天正5年 信長右大臣就任
天正6年 上杉謙信死去
天正7年 安土城完成
天正8年 信長と本願寺の和議が成立
天正9年  
天正10年 武田家滅亡・本能寺の変
天正11年 賤ケ岳の戦い
天正12年 小牧・長久手の戦い
天正13年 秀吉関白になる
天正14年 家康が秀吉に臣従する
天正15年 伴天連追放令発布
天正16年 室町幕府滅亡
天正17年  
天正18年 秀吉小田原攻め
天正19年 豊臣秀次関白になる
天正20年 文禄の役・文禄元年
文禄2年 豊臣秀頼誕生
文禄3年 吉野の花見・太閤検地
文禄4年 秀次高野山に追放・自害・妻子処刑
文禄5年 慶長元年・秀頼元服
慶長2年 慶長の役
慶長3年 秀吉死去
慶長4年 家康が大坂城西の丸入り
慶長5年 関ヶ原の戦い
慶長6年  
慶長7年 方広寺大仏殿焼失
慶長8年 家康征夷大将軍になる
慶長9年  
慶長10年 徳川秀忠2代将軍になる
慶長11年 江戸城本丸完成
慶長12年 駿府城全焼・大改修
慶長13年  
慶長14年  
慶長15年  
慶長16年  
慶長17年  
慶長18年  
慶長19年 方広寺鍾名事件・大坂冬の陣
慶長20年 大坂夏の陣豊臣氏滅亡

長くてすいません・・・。受験勉強ではなぜか世界史を取ってしまったので、こうしてみるのが意外と新鮮でして。

しかしこうして見ると、家康ってのはホントに辛抱強いというか。家康が実権を握ってからの年表とそれ以前の年表って、密度が全然違いますよね。もちろん時代の流れというのもあったんでしょうが。まぁその割に、方広寺の鐘名事件からは急転直下という感じも受けます。豊臣を潰す機会を虎視眈々と狙っていた・・・と考えると、そこまでの空白(実際には空白ではないですが)が恐ろしくも感じます。

さて、前置きがながくなりました。前置きだけで1200文字って・・・年表で取りすぎですわ。気を取り直して、この後はスムーズに進めたいところです💦

【発掘現場の向こうには富士山が覗いていました】

【こちらが天正期の天守台跡です】

上の写真中央に緑のコーンが置かれていますが、それが天守台の手前の辺(東側)の中央になります。その右の赤いコーンが角になって、奥の黄色いコーン、さらにその奥の赤いコーンまでが北側の1辺になります。東西33m、南北37mあるそうです。これは、天正期にしては全国的に見てもかなり大きいサイズだそうです。使っている石材が大きく、そうした石材の大きさというのも特徴だそうです。

この天守台の中央部からは、井戸の跡が見つかっているそうです。天正期の井戸の発見は今回が初めてとか。駿府城址で初めてなのか全国的に初めてなのかは聞きそびれてしまいました💦

そして、この天守台の周囲にあった、天正期本丸掘跡から出土したのが金箔瓦です。

【金箔が貼られた瓦が363片発見されています】

この金箔瓦が発掘されたというのが大変大きなニュースでして、2018年10月に大きく報じられています。

これがなぜ大きなニュースになったかというと、家康時代にはこの金箔瓦というのは使われていなかったため、秀吉時代の遺構があるということが確定的になったからなんですね。その上、出てきた金箔瓦はほとんどが破片となっています。

つまり、家康時代の駿府城を作るにあたって、豊臣時代の駿府城を完膚なきまでに破壊したのではないかということが言えるということなのですね。そのため、天守台跡も、天正期と慶長期と、別々に発掘されているというわけです。

普通は、新たに作ることは手間ですし、コストもかかりますから、建て替えるにあたっても前の物を流用することが多いそうなんですね。ところがことお城に関しては、この駿府城もそうですが、大坂城も、家康は秀吉時代の城を跡かたもなく潰しています。

この件に関しては、ブラタモリで扱っていたので知りましたw

それだけ、豊臣時代の威光というものを家康が恐れていたということが言えるのかもしれません。

そんなわけで、この駿府城、秀吉時代と家康時代の遺構がそれぞれ見られるという点で、非常に重要な発見ということになったのだそうです。

さて、そんな遺構を、さらに見せてもらいましょう(※ブラタモリの草薙君のナレーションのように読んでくださいw)。

【ここからは、普段は立ち入りできないんです】

【何やら穴が】

こちらは、天正期の小天守台だそうです。これが見つかったことで、文献と一致することになりました。家康が作ったという記録があるそうです。一辺20mほどの大きさがあるそうです。

【さらに普段立ち入りできないところを進んでいきます】

【こちらは左右に石垣が並んでいますが・・・】

【右側が天正期、左側が慶長期の石垣だそうです】

この場所は、天正期と慶長期の石垣が並んでおり、比較してみることができる貴重な場所とのこと。

係の人が指さしている先には・・・

【石にくぼみが】

石を割ったときにできる矢穴が見られました。

こうした矢穴は、天正期には見られないとのことです。当時はまだ野面積み(のづらづみ)という石の積み方をしていました。これは、石を加工せず自然の石をそのまま積む工法です。空いた隙間には、その隙間に合った大きさの石を詰め込むことで、石垣を安定させていました。

それが、慶長期になると、石を割って加工し、ある程度形や大きさを合わせて積む打込接(うちこみはぎ)という工法になりました。劇的な変化があったというのはこのあたりのことになります。これがさらに進化すると、切込接(きりこみはぎ)といって、四角に形を整えた石を、隙間なくぴったりくっつけて積み上げる工法になります。これは江戸時代中期ごろから用いられたもので、戦国~江戸初期には見られないものになります。

ちなみに駿府城では、全ての石の積み方が見られます。天正期・慶長期それぞれの築城時のものと、その後、補修が行われたということがここから分かるということです。

と、ここまで書いたところで2900文字近くになってしまいました。こんな長くなる予定ではなかったんですが。

あんまりたくさん書いても、見る方も、ね。ということで、今日はこんなところで。続きはまた明日です。